辻堂南町

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神奈川県 

辻堂両諏訪神社

辻堂両諏訪神社

所在地:藤沢市辻堂元町3-15-15
建 立:平治年間(1159)
長野県諏訪にあります上諏訪・下諏訪の両諏訪神社を祀っております。
御祭神は 建御名方命(たけみなかたのみこと、男神)と
     八坂刀売命(やさかとめのみこと、妃神)
神紋:諏訪梶
古い資料では「丸に立ち梶の葉」を辻堂両諏訪神社では使用していたのですが、現在では「丸に諏訪梶」が正式とされています。


諸説ありますが、大小含めると全国で25,000社といわれる諏訪神社ですが、上社と下社を別々に建て、または片神のみを祀るか、一つの神坐に両神をお祀りいる場合が多く、一つ社に二つの神坐を有し、両神をお祀りしているのは珍しく、辻堂では「両諏訪神社」の名称が古くからの呼称であると言われています。
この点、古い資料からは呼称として「両諏訪神社」との表記が確認できるのですが、平成の大造営に際して神社本庁への登記をした際、「諏訪神社」との表記へ変更されたというお話も伺った事があります。

鎌倉時代前後には諏訪大社を「武勇の神」として、武家や豪族に諏訪詣出が奨励され、鎌倉から諏訪へ向かう街道筋の村々には、持ち帰られたご分霊が氏子神として祀られたものと考えられます。
但し、正式に諏訪大社の勧請を受けるには「薙鎌」にご分霊頂き、それをご神体として祀るのですが、受けられるのは6年に一度と機会が少なく、参拝者は古代信仰的に神域にある生長物や石などを霊験あるものとして非公式に持ち帰り、ご神体とする事もあったようです。
辻堂も現在では、大変残念ですが火災により焼失したのか、「薙鎌」は現存しておらず、他の物がご神体としてお祀りされているようです。

諏訪大社、または諏訪末社が強く信奉されるようなったのは、辻堂においても、一次大戦~二次大戦の間、「武勇の神」として、地元から出征者が出る時には両諏訪神社にて神威をいただくべく儀礼をし、辻堂駅前にて村民総出でお見送りをしたそうです。

祭礼は7月26.27日です。
縁日(例大祭)の起源は、多くの各地諏訪神社と同じく諏訪大社の御射山(みさやま)まつり(秋の収穫祈念祭)の日程であった「七月二十六~二十八」にちなんで、二十日の幟立てから祭礼期間に入り、二十六日宵宮、二十七日例大祭、二十八日鉢払いとしていました。しかしながら、明治時代に入り、旧暦から新暦(太陰暦から太陽暦)に暦が変更され、諏訪大社をはじめとして、各地諏訪神社に於いても、八月二十六~二十八への日程変更が行われましたが、大正期に社殿が大造営されるまで、おそらく無管理状態であった辻堂両諏訪神社では、日取り変更の相談がなされなかったものと思われ、現在でも七月の、例大祭の直前の日曜を幟立て、神社神輿渡御とし、二十六~二十八にて祭礼を行っております。


昭和初期までは、焼失のためか神社に神輿は無く、もともと7月14日に近くの天王山神社の例大祭として神輿渡御を行っていたのですが、人手不足のため、両諏訪神社例大祭の一環として25日に日程を変更し、天王山所蔵の神輿を辻堂・明治地区まで渡御していました。しかし天皇山の神輿は重く、人手不足もあってか、天王山の神輿渡御は廃れ、代わりに両諏訪神社が神輿を建造し、天皇山例大祭の名残として25日に渡御されるようになりました。昭和50年代中ごろまでは25日に諏訪神社の神輿が渡御されていましたが、平日に当たると担ぎ手が集まらず、例大祭前週の日曜日に神輿渡御のみ日程変更されました。

旧社殿は寛永8年、文政7年に火災に遭い、文政8年(1825)に造営、その後関東大震災等により度々修復してきましたが老朽化が進み取り壊されました。

新社殿は1998年8月~2000年7月の工事期間に、平成の大造営として社殿の建て替えおよび付属施設整備が着手されました。
 事業期間:1998年8月~2000年7月


神の系譜
神様には天照大御神をはじめとする天皇系をお祀りする「神宮系」=「伊勢系」と、大国主命をはじめとする日本古来の神々をお祀りする「神社系」=「出雲系」があります。辻堂両諏訪神社についても多くの参拝者が「アマテラスオオミカミ」がお祀りされていると勘違いされているようですが、「伊勢系」と「出雲系」は国争いをした仲である事は理解を要するところかと思います。
辻堂両諏訪神社が辻堂村の総鎮守とされたのは神仏分離後の明治6年。おそらくですが、総鎮守となった意義として、社殿の大きさや立地、信徒の多さではなく、治世的・社会情勢的に建御名方命=「武勇の神」をお祀りしている事から推挙されたものと思われます。
「伊勢系」「出雲系」どちらに於いても現在は様式や作法に違いは無く、現在に於いてはいずれの信仰も親和されているのが現状でしょう。


祭礼に関する考察
「おまつり」とは、語源については明確なものはなく、諸説ありますが、一説に「御集まり」が音便化したもの。「奉る」は「多勢集まる」の音便化とする説があります。管理人個人としては、まさに的確な具体的表現として使わせていただいておりますが、辻堂に於いて、そもそも何でおまつりをするのでしょか?
おまつりの起源は、ほぼ全ての神社に於いてその意義は「五穀豊穣」を祈念する事にあります。日本に於いては、干ばつ、大水、大風による不作は人の生死に直結していたのです。文献によれば、台風による被害で、不作により村民が半減してしまう地方があるなど、不作による、特に収穫を目前にした台風は毎年襲ってくる最大の脅威であり、人知の及ばない、神のみに願う事柄であったのでしょう。
諏訪大社は武勇の神、また水神であり、辻堂両諏訪神社でも旧暦7月27日(新暦でほぼ8月27日)に、秋の収穫祈念祭として五穀豊穣と治水を祈念すると共に、その時代、地域性など様々な願いを込めておまつりを行う事で、娯楽とし、また、地域の交流を図ったものと思います。
また、おまつりに於いて一番大切な儀式として直会(なおらい)があります。この語源にも諸説ありますが、祭礼行事の締めくくりとして「供え物を神と共に供する時間・神に直接会い、一体化する瞬間」とする説と「祭礼の非日常から、日常へ直り会う時間」とする説が有力です。いずれにせよ、祭礼を締めくくるために、必ずしなければならない作法である事であり、祭礼の本道であるとされています。